日本のアニメにおける「チャイナドレスの女の子」は、別に僕がパイオニアじゃない。 マクロスのリン・ミンメイが赤いチャイナドレスは着てたし。 ただミンメイは、この格好で動いてくれなかった。 設定としてあるだけで、劇中でスリットからの脚を売りにするような描写は殆ど無かったと思う。ほ
今日はちょっとね 色々と感動している。 1988年に最初の「魔物ハンター妖子」は生まれた。 六月十三氏の何気ないアイデア 「宮尾くん、チャイナドレスで剣持って闘う娘描いて」 「またもー 君はあざといなー」 「前にキョンシーズのテンテンちゃん描いてたろ あの子をもっと年頃にして」
魔物ハンター妖子『遠き呼び声』 ここで妖子は終わると思ってた。 後日、漫画版の妖子を描く事になった時、必ずここへ帰って来ようと決めていた。 https://t.co/CEwhHtIF2Q
予算無いってはずなのに、 エンディング用に新曲。 それにキッチリプログラマーさんが、音と絵と合わして下さって。 サビ直前の「三枚振り向き」なんて抜群のタイミング。 直ぐに白くフェードアウト。 【ようやってくれた!!】って、涙が止まらなかった。
アオバのような「毎回読み切り連作」の場合、基本キャラクターはその1回しか出て来ない。 その回を描くための『キャラクター表』を描くが、これは自分で確認するためで、人に見せるものじゃない。 その回が終わったら捨ててしまう事もある。 何の話のキャラクターか分かるかなー(^_^;)
貸人屋 1/7
「はだしのゲン」のアニメーションは、当時働いていたアニメスタジオでも動画の手伝いをした。 最初キャラ表だけ見た時に「なんだか明るく丸くなっちゃったなあ 大丈夫かなあ」と思ったが、作画が始まったらそれどころでは無かった。 中割りしてる動画が辛くて吐いた。 https://t.co/QZKS0vskUs
ちょうど最新号のアオバ内で、五六七八のオヤジさんのセリフで語ってますが 【昭和のだから直せる】とは【直せるような設計と部品で出来ている】です。 1万円の自転車は、【壊れたら直せない】所が沢山あります。 特にフレームと回転部分。 亀裂や破損が入ったら捨てるしかない。交換出来ないんです
1976年秋の学園祭用に作った【宇宙戦艦ヤマト紙しばい】 これは、強力な協力者の彼女の大量ヤマト写真が無ければ、絶対に実現しなかった。 彼女は【ヤマトの再放送をカメラで撮る】をしてくれてたのだ。 この時代、ホームビデオなんてものは僕らの周りには無い。 アニメ雑誌も無い。
モスピーダのライドアーマー透視図の、原画記事を発掘できた。 もう一度描けと言われたら逃げる。
押し入れ発掘 お宝出て来た。 【家なき子 宝島の 杉野昭夫さんの修正原画】です。 アニメーター1年生で、これをクリーンナップしなくてはならなかった。 この線を殺してはいけない。 それが絶対条件だ。
僕の記憶では1960年の 手塚治虫先生の「エンゼルの丘」に出て来るチャーとベターでしょうか。 メガネで人魚で双子で殺し屋という、最初期にして「全部盛り」
#あれ実は私なんです 僕のところへ訪れる人なら、僕の80〜90年代の版権処理仕事はほとんどが【あれ実は私】なのがお分かりでしょう。 版権仕事には、基本「誰か描いたのか」はクレジットされない。 それが当たり前です。 でも、それが発想のきっかけになって 後の赤チャイナの娘になったりします。