アートミック時代に、 【とにかくバイク変形ロボは何でも作る】な無茶企画もあって 絵で描く分にゃ、ある程度好き勝手に出来るなと。 それでも最低限度の変形機構は考えてます。 あの企画書どこ行ったのかな。 左が1型、右が3型カタナロボです。
あくまでも宮尾的な横顔の描き分けですが… Aが大人(ワカバさん) Bが中、高校生(ナギサやナツキ) Cがアオバ(小4) D、Eはその口パク どちらも使う。 アオバでもマジな芝居の時はB、Aに近づく。 唇や顎のラインがハッキリした方が、セリフに説得力が出るからだ。 https://t.co/qPtBjpXfO0
というか、KAZANという作品そのものが 「絵描きを目指そう、演出もしたい」で、一番最初に多大な影響を受けた【出崎さん 杉野さん 宮崎さん】に対する僕なりの回答なのです。 憧れてるだけじゃ無く 挑戦状を叩きつけたかった。 だから何としても最後まで描きたかったんですよ。
前に単行本のカバー用に描いた【RIDLEYに乗る高校生になったアオバ】 もちろん劇中では永遠の小4ですが(^_^;) それに合わせて、ヒバリ、ユーノちゃんもナギサの母校 「丘の上女子」の生徒になってもらいました。 アオバB ヒバリA ユーノDです。 ストーリーとして描くことは無い(と思う)
貸人屋 1/7
「はだしのゲン」のアニメーションは、当時働いていたアニメスタジオでも動画の手伝いをした。 最初キャラ表だけ見た時に「なんだか明るく丸くなっちゃったなあ 大丈夫かなあ」と思ったが、作画が始まったらそれどころでは無かった。 中割りしてる動画が辛くて吐いた。 https://t.co/QZKS0vskUs
ちょうど最新号のアオバ内で、五六七八のオヤジさんのセリフで語ってますが 【昭和のだから直せる】とは【直せるような設計と部品で出来ている】です。 1万円の自転車は、【壊れたら直せない】所が沢山あります。 特にフレームと回転部分。 亀裂や破損が入ったら捨てるしかない。交換出来ないんです
1976年秋の学園祭用に作った【宇宙戦艦ヤマト紙しばい】 これは、強力な協力者の彼女の大量ヤマト写真が無ければ、絶対に実現しなかった。 彼女は【ヤマトの再放送をカメラで撮る】をしてくれてたのだ。 この時代、ホームビデオなんてものは僕らの周りには無い。 アニメ雑誌も無い。
モスピーダのライドアーマー透視図の、原画記事を発掘できた。 もう一度描けと言われたら逃げる。
押し入れ発掘 お宝出て来た。 【家なき子 宝島の 杉野昭夫さんの修正原画】です。 アニメーター1年生で、これをクリーンナップしなくてはならなかった。 この線を殺してはいけない。 それが絶対条件だ。
僕の記憶では1960年の 手塚治虫先生の「エンゼルの丘」に出て来るチャーとベターでしょうか。 メガネで人魚で双子で殺し屋という、最初期にして「全部盛り」
#あれ実は私なんです 僕のところへ訪れる人なら、僕の80〜90年代の版権処理仕事はほとんどが【あれ実は私】なのがお分かりでしょう。 版権仕事には、基本「誰か描いたのか」はクレジットされない。 それが当たり前です。 でも、それが発想のきっかけになって 後の赤チャイナの娘になったりします。