【魔物ハンター妖子】という作品は、僕の中ではこの1996 年の漫画版で完結しています。 ゲームやアニメでメディアミックス展開した妖子ですが、本当に1から10まで自分が描く事が出来たのは、最後の漫画版でした。 賛否両論あるでしょうが、この妖子で終われた事は自分なりに納得しています。
だから【二度目の人生アニメーター】劇中作として「刃物ハンターヨウコ」を描くのはセルフパロディになってしまう。 自分で蛇足を描くのか? …ならば 実はこれがアニメでやりたかった「僕の妖子」 今更、後だしジャンケンと言われてもね。 だからライゴウをもう一度出したのです。
【魔物ハンター妖子】の中の【魔物】って何でしょう? 僕はアニメやゲームの妖子の中で、これがずっと疑問でした。 単に悪霊とか異形の物としか描かれない。 それでは弱いだろう。 【なぜ魔物として生まれたのか】 ここをちゃんと漫画版では描きたかった。 正義の名のもとに剣を振れない妖子を。
だいぶ前に久米宏さんが、何かのラジオで「今月、親父の歳を越えた。 親父の歳までは生きていようと思ってた」なんて仰ってて そんなモンかなー なんて聴いてたけど。 僕はあと10年で、親父の死んだ歳になる。 それまでは現役で仕事してたいな…なんて気がして来た。 縁起でもない?
今は「今風の絵」を描こうとしたら、沢山の手引き書がある。 その通りに描けば、誰でも「今風の絵」を手に入れることが出来るだろう。 どんどん上達する自分が嬉しい。 さて そこからだ。 今風の絵が描けるようになって 【それをどうする?】 俺たちの戦いは始まったばかりだ(定番)
貸人屋 1/7
「はだしのゲン」のアニメーションは、当時働いていたアニメスタジオでも動画の手伝いをした。 最初キャラ表だけ見た時に「なんだか明るく丸くなっちゃったなあ 大丈夫かなあ」と思ったが、作画が始まったらそれどころでは無かった。 中割りしてる動画が辛くて吐いた。 https://t.co/QZKS0vskUs
ちょうど最新号のアオバ内で、五六七八のオヤジさんのセリフで語ってますが 【昭和のだから直せる】とは【直せるような設計と部品で出来ている】です。 1万円の自転車は、【壊れたら直せない】所が沢山あります。 特にフレームと回転部分。 亀裂や破損が入ったら捨てるしかない。交換出来ないんです
1976年秋の学園祭用に作った【宇宙戦艦ヤマト紙しばい】 これは、強力な協力者の彼女の大量ヤマト写真が無ければ、絶対に実現しなかった。 彼女は【ヤマトの再放送をカメラで撮る】をしてくれてたのだ。 この時代、ホームビデオなんてものは僕らの周りには無い。 アニメ雑誌も無い。
モスピーダのライドアーマー透視図の、原画記事を発掘できた。 もう一度描けと言われたら逃げる。
押し入れ発掘 お宝出て来た。 【家なき子 宝島の 杉野昭夫さんの修正原画】です。 アニメーター1年生で、これをクリーンナップしなくてはならなかった。 この線を殺してはいけない。 それが絶対条件だ。
僕の記憶では1960年の 手塚治虫先生の「エンゼルの丘」に出て来るチャーとベターでしょうか。 メガネで人魚で双子で殺し屋という、最初期にして「全部盛り」
#あれ実は私なんです 僕のところへ訪れる人なら、僕の80〜90年代の版権処理仕事はほとんどが【あれ実は私】なのがお分かりでしょう。 版権仕事には、基本「誰か描いたのか」はクレジットされない。 それが当たり前です。 でも、それが発想のきっかけになって 後の赤チャイナの娘になったりします。