【魔物ハンター妖子のパッケージを決めるのは俺だ!】 結果出ました! 投票総数827票!! うち52%を占めた 【タイプC】とします。 一晩でまさかの800票超え。本当にありがとうございます。 次点でB、D、Aですが どれもコダワリのコメントを沢山いただきました。何かの機会で描けるといいな。
妖子のパッケージ案を考える時に、ABC3案くらい描いて出して クライアントと決めるなんてのは30年前にも行ってた。 それが今では、【直接 妖子のファンに聞ける】 しかもリアルタイムで。 こんな時代が来るなんてね。 これはシングルCDの縦長パッケージアイデアラフです。
【燃えて走れ!】は 1972年の村上もとか先生の少年ジャンプでのデビュー作。 僕はこれが連載当時大好きで、強烈に印象に残ってる。 サーキットの狼の3年前。 圧倒的な迫力で伝説のレーサー 浮谷東次郎の一生を描いた力作だ。 オートバイも車もこの時から抜群に上手い。
同時期に「KAZAN」と 「並木橋通りアオバ自転車店」を連載していたけど KAZANはドラマチックなコマ割り優先 アオバは淡々とした静かなコマ割りにしていました。 これは作風と読者層を考えての事です。
アオバ自転車店の主人公 アオバちゃんのお父さんお母さんである 【峠工一と峠ワカバ】 この二人には連載始まって23年、ただの一度も 互いを「好き」とか「愛してる」とかのセリフを言わせてない。 どこかで言ってるのかもしれないが、漫画では描かない。 か… 描いてないよな(^_^;)
貸人屋 1/7
「はだしのゲン」のアニメーションは、当時働いていたアニメスタジオでも動画の手伝いをした。 最初キャラ表だけ見た時に「なんだか明るく丸くなっちゃったなあ 大丈夫かなあ」と思ったが、作画が始まったらそれどころでは無かった。 中割りしてる動画が辛くて吐いた。 https://t.co/QZKS0vskUs
ちょうど最新号のアオバ内で、五六七八のオヤジさんのセリフで語ってますが 【昭和のだから直せる】とは【直せるような設計と部品で出来ている】です。 1万円の自転車は、【壊れたら直せない】所が沢山あります。 特にフレームと回転部分。 亀裂や破損が入ったら捨てるしかない。交換出来ないんです
1976年秋の学園祭用に作った【宇宙戦艦ヤマト紙しばい】 これは、強力な協力者の彼女の大量ヤマト写真が無ければ、絶対に実現しなかった。 彼女は【ヤマトの再放送をカメラで撮る】をしてくれてたのだ。 この時代、ホームビデオなんてものは僕らの周りには無い。 アニメ雑誌も無い。
モスピーダのライドアーマー透視図の、原画記事を発掘できた。 もう一度描けと言われたら逃げる。
押し入れ発掘 お宝出て来た。 【家なき子 宝島の 杉野昭夫さんの修正原画】です。 アニメーター1年生で、これをクリーンナップしなくてはならなかった。 この線を殺してはいけない。 それが絶対条件だ。
僕の記憶では1960年の 手塚治虫先生の「エンゼルの丘」に出て来るチャーとベターでしょうか。 メガネで人魚で双子で殺し屋という、最初期にして「全部盛り」
#あれ実は私なんです 僕のところへ訪れる人なら、僕の80〜90年代の版権処理仕事はほとんどが【あれ実は私】なのがお分かりでしょう。 版権仕事には、基本「誰か描いたのか」はクレジットされない。 それが当たり前です。 でも、それが発想のきっかけになって 後の赤チャイナの娘になったりします。