【燃えて走れ!】は 1972年の村上もとか先生の少年ジャンプでのデビュー作。 僕はこれが連載当時大好きで、強烈に印象に残ってる。 サーキットの狼の3年前。 圧倒的な迫力で伝説のレーサー 浮谷東次郎の一生を描いた力作だ。 オートバイも車もこの時から抜群に上手い。
同時期に「KAZAN」と 「並木橋通りアオバ自転車店」を連載していたけど KAZANはドラマチックなコマ割り優先 アオバは淡々とした静かなコマ割りにしていました。 これは作風と読者層を考えての事です。
アオバ自転車店の主人公 アオバちゃんのお父さんお母さんである 【峠工一と峠ワカバ】 この二人には連載始まって23年、ただの一度も 互いを「好き」とか「愛してる」とかのセリフを言わせてない。 どこかで言ってるのかもしれないが、漫画では描かない。 か… 描いてないよな(^_^;)
相変わらずヤフ○クやメル○リで、【ニセモノ色紙】で荒稼ぎしてる輩がいる。 基本、プロは色紙描くときは【〜〜さんへ】と、描いた日付を色紙に書き込む。 【これが無い色紙はまずニセモノと思っていい】 こういう輩は【〜〜さんへ】と書かれていると売りにくいので、模造する時は書かない。
この辺は【二度目の人生アニメーター】内でも、リアルに扱ってます。 レンタルビデオだって最初は【一本一泊千円】なんてのが当たり前だった。 借りるのにも覚悟がいる。でも店には1作品1本しか入れないから、グズグズしてたらいつまでも借りられない。 今のツタヤとは違うのだ(TдT)
貸人屋 1/7
「はだしのゲン」のアニメーションは、当時働いていたアニメスタジオでも動画の手伝いをした。 最初キャラ表だけ見た時に「なんだか明るく丸くなっちゃったなあ 大丈夫かなあ」と思ったが、作画が始まったらそれどころでは無かった。 中割りしてる動画が辛くて吐いた。 https://t.co/QZKS0vskUs
ちょうど最新号のアオバ内で、五六七八のオヤジさんのセリフで語ってますが 【昭和のだから直せる】とは【直せるような設計と部品で出来ている】です。 1万円の自転車は、【壊れたら直せない】所が沢山あります。 特にフレームと回転部分。 亀裂や破損が入ったら捨てるしかない。交換出来ないんです
1976年秋の学園祭用に作った【宇宙戦艦ヤマト紙しばい】 これは、強力な協力者の彼女の大量ヤマト写真が無ければ、絶対に実現しなかった。 彼女は【ヤマトの再放送をカメラで撮る】をしてくれてたのだ。 この時代、ホームビデオなんてものは僕らの周りには無い。 アニメ雑誌も無い。
モスピーダのライドアーマー透視図の、原画記事を発掘できた。 もう一度描けと言われたら逃げる。
押し入れ発掘 お宝出て来た。 【家なき子 宝島の 杉野昭夫さんの修正原画】です。 アニメーター1年生で、これをクリーンナップしなくてはならなかった。 この線を殺してはいけない。 それが絶対条件だ。
僕の記憶では1960年の 手塚治虫先生の「エンゼルの丘」に出て来るチャーとベターでしょうか。 メガネで人魚で双子で殺し屋という、最初期にして「全部盛り」
#あれ実は私なんです 僕のところへ訪れる人なら、僕の80〜90年代の版権処理仕事はほとんどが【あれ実は私】なのがお分かりでしょう。 版権仕事には、基本「誰か描いたのか」はクレジットされない。 それが当たり前です。 でも、それが発想のきっかけになって 後の赤チャイナの娘になったりします。