ちょい長いけど、小田部羊一さんの任天堂での仕事を確認できて、とても面白かった。 皆がいつも見てたマリオも「絵としての完成形」は、小田部さんが高度に昇華したもの。 と言うことは、仕事を通じて僕もどこかで繋がっていたんだ。 なんか感動である。
「人生を変えた1冊」というのがあるとしたら 僕には間違い無くこれ。 星里もちる先生の 【わずかいっちょまえ】 版権仕事や妖子の絵を描きながら、なんとなくモヤモヤしてた時にこれに出逢い 【このままじゃいかんだろ自分 描きたくないのか漫画を!】と強烈に刺激された。 ありがとうございます
この2作は、スタジオジブリが90分のアニメーションにするにはもって来いの素材なのに、何故気付かない!と思ってた。 特にまだ徳間書店がチカラを持ってた時に「わずかいっちょまえ」やらないでどうするよと。 しかし同時に「ジブリ絵にされちゃアカン」とも。 ああもう、ホントに気付いてよ!
アオバ自転車店を続けてなかったら、ヒバリちゃんの自転車のモデルとしてスタジオぬえの加藤さんのトレンクル取材したり、モリオにカーボンロード乗らせるために高千穂さんのTREK取材したりは無かった。 聖悠紀先生の自転車直す事も。 レジェンド級の先輩と巡り合わせてくれたアオバに感謝。
貸人屋 1/7
「はだしのゲン」のアニメーションは、当時働いていたアニメスタジオでも動画の手伝いをした。 最初キャラ表だけ見た時に「なんだか明るく丸くなっちゃったなあ 大丈夫かなあ」と思ったが、作画が始まったらそれどころでは無かった。 中割りしてる動画が辛くて吐いた。 https://t.co/QZKS0vskUs
ちょうど最新号のアオバ内で、五六七八のオヤジさんのセリフで語ってますが 【昭和のだから直せる】とは【直せるような設計と部品で出来ている】です。 1万円の自転車は、【壊れたら直せない】所が沢山あります。 特にフレームと回転部分。 亀裂や破損が入ったら捨てるしかない。交換出来ないんです
1976年秋の学園祭用に作った【宇宙戦艦ヤマト紙しばい】 これは、強力な協力者の彼女の大量ヤマト写真が無ければ、絶対に実現しなかった。 彼女は【ヤマトの再放送をカメラで撮る】をしてくれてたのだ。 この時代、ホームビデオなんてものは僕らの周りには無い。 アニメ雑誌も無い。
モスピーダのライドアーマー透視図の、原画記事を発掘できた。 もう一度描けと言われたら逃げる。
押し入れ発掘 お宝出て来た。 【家なき子 宝島の 杉野昭夫さんの修正原画】です。 アニメーター1年生で、これをクリーンナップしなくてはならなかった。 この線を殺してはいけない。 それが絶対条件だ。
僕の記憶では1960年の 手塚治虫先生の「エンゼルの丘」に出て来るチャーとベターでしょうか。 メガネで人魚で双子で殺し屋という、最初期にして「全部盛り」
#あれ実は私なんです 僕のところへ訪れる人なら、僕の80〜90年代の版権処理仕事はほとんどが【あれ実は私】なのがお分かりでしょう。 版権仕事には、基本「誰か描いたのか」はクレジットされない。 それが当たり前です。 でも、それが発想のきっかけになって 後の赤チャイナの娘になったりします。