斎藤:真崎さんが青年誌でデビューした時、丸山さんから「これが峠あかねの本業なんだ」って聞かされ驚いたんだけれど、頁数があまり貰えなかったのかコマ割りがやたら小さくて複雑なんだよね。本人はもっと(頁数を貰い)遊びたかったんだろうけれど、表現として全然違う「新しいまんが」だったんです
真崎:当時の劇画の「劇」はリアルな絵という意味だったけれど、僕にとっての「劇」はドラマの核なんですよ。僕はアニメ出身なのでコマ割りで全部語れるんです。それで、画面自体でどれだけ語れるかではなく、コマとコマの間に「どこまで隠せるか」そちらの方に腐心しましたね
霜月:真崎さんは峠あかね名義でCOMで「ぐら・こん」や「まんが月評」をされてましたが、評論家・峠あかねとまんが家・真崎守の間に葛藤はなかったのですか 真崎:僕は最初はまんがは描いてません。途中から描くようになった時点で評論はすっぱり捨てました。同時にやるのはペテン氏になると思ったから
真崎:もう一つは、新宿に「コボタン」って喫茶店があって、そこのマスターが「まんが喫茶を始めたいけれど置くまんががない」って言うので、定期的に展示会を開いて、そこもやはりまんがを語る若者たちの集いの場になりましたね。僕らの若い頃はそんなことはなかったですからね
真崎:それでも当時熱心な読者がいて、夏休みとかに訪ねてきて今後の展開を訊いたりする。この作品を描いたことは不思議な体験でした。 不思議な体験と言えば最近もう一つ、それは僕が昔、学研の通販雑誌に描いた飛行機の歴史のまんが(「ホモ・ウォラント」のこと)について
漫画家が若くして亡くなる度に囁かれる「漫画家は早死に」は本当かと思って集計 自殺や事故で早逝したことが公表された方を除く219名の平均値は62.6歳 我が国の平均寿命より大分短い 勿論、公表されていないだけで自殺や事故の方がこの中にいる可能性も、長命の方が私の調査から漏れている可能性もあり
#矢口高雄展 第一期鑑賞 代表作が釣り漫画でキャラ容姿がマンガ的だったため、一般読者から軽視されていた感がありますが、実は凄まじい画力の天才 自然物や魚のリアリティは言うに及ばず、動きの一瞬を描く(勿論、頭の中で考えて)構図の見事さと卓抜な表現力 「マンガの絵」を勉強している人は必見
8月8日は 僅か2年間の商業誌活動で大きな痕跡を残し、マンガのこれからの可能性を示しつつ 1984年に26歳という若さでこの世を去った かがみあきら先生の御命日 そのあまりにも早すぎる死がなければ、その後の漫画界の地図も変わっていたかも
#昭和はすごかった 漫画雑誌に 漫画家の住所が普通に載っていました (1970年代中盤~終わり頃にほぼ消滅)
定期的にツイートされている、1989年2月10日報知新聞に載った星新一先生の追悼文ですが 全文はこちらになります。 https://t.co/wtamFJLvuw
#子供の頃の勘違いをあえて言おう テレビで放送されていた海外ドラマや洋画を観ながら 「何でこの外国人さんたちは、こんなにも日本語が上手いのだろう」 と不思議に思っていました。
今日、2月9日は 32年前に日本中の漫画関係者&漫画好きが(けして誇張でも何でもなく)驚きの声を上げた日。 それほど「手塚治虫先生がいなくなる」と言う(冷静に考えればいつか必ず来ると分る)瞬間を皆想像出来ていなかった。 画像は星新一先生怒りの追悼文の全文(1989年2月10日の報知新聞掲載)
ぱふ1982年5月号「新谷かおる特集号」より 30歳当時?の佐伯かよの先生の御尊顔