霜月:真崎さんは峠あかね名義でCOMで「ぐら・こん」や「まんが月評」をされてましたが、評論家・峠あかねとまんが家・真崎守の間に葛藤はなかったのですか 真崎:僕は最初はまんがは描いてません。途中から描くようになった時点で評論はすっぱり捨てました。同時にやるのはペテン氏になると思ったから
真崎:もう一つは、新宿に「コボタン」って喫茶店があって、そこのマスターが「まんが喫茶を始めたいけれど置くまんががない」って言うので、定期的に展示会を開いて、そこもやはりまんがを語る若者たちの集いの場になりましたね。僕らの若い頃はそんなことはなかったですからね
真崎:それでも当時熱心な読者がいて、夏休みとかに訪ねてきて今後の展開を訊いたりする。この作品を描いたことは不思議な体験でした。 不思議な体験と言えば最近もう一つ、それは僕が昔、学研の通販雑誌に描いた飛行機の歴史のまんが(「ホモ・ウォラント」のこと)について
3月13日は 大和和紀先生の誕生日 毎日グラフ1971年1月17日号 今時化利裸漫画家拾五人衆(いまどき・げりらまんがか・じゅうごにんしゅう)より 当時22歳の御近影 カッコいい…けど不思議なポーズ
#大阪万博開幕50周年 週刊少年サンデー1970年3月22日号より EXPO'70準備完了(航空写真によるガイド) コンピューターでまんがを作ろう!(万国博IBM館)
#大阪万博開幕50周年漫画家が若くして亡くなる度に囁かれる「漫画家は早死に」は本当かと思って集計 自殺や事故で早逝したことが公表された方を除く219名の平均値は62.6歳 我が国の平均寿命より大分短い 勿論、公表されていないだけで自殺や事故の方がこの中にいる可能性も、長命の方が私の調査から漏れている可能性もあり
#矢口高雄展 第一期鑑賞 代表作が釣り漫画でキャラ容姿がマンガ的だったため、一般読者から軽視されていた感がありますが、実は凄まじい画力の天才 自然物や魚のリアリティは言うに及ばず、動きの一瞬を描く(勿論、頭の中で考えて)構図の見事さと卓抜な表現力 「マンガの絵」を勉強している人は必見
8月8日は 僅か2年間の商業誌活動で大きな痕跡を残し、マンガのこれからの可能性を示しつつ 1984年に26歳という若さでこの世を去った かがみあきら先生の御命日 そのあまりにも早すぎる死がなければ、その後の漫画界の地図も変わっていたかも
#昭和はすごかった 漫画雑誌に 漫画家の住所が普通に載っていました (1970年代中盤~終わり頃にほぼ消滅)
定期的にツイートされている、1989年2月10日報知新聞に載った星新一先生の追悼文ですが 全文はこちらになります。 https://t.co/wtamFJLvuw
#子供の頃の勘違いをあえて言おう テレビで放送されていた海外ドラマや洋画を観ながら 「何でこの外国人さんたちは、こんなにも日本語が上手いのだろう」 と不思議に思っていました。
今日、2月9日は 32年前に日本中の漫画関係者&漫画好きが(けして誇張でも何でもなく)驚きの声を上げた日。 それほど「手塚治虫先生がいなくなる」と言う(冷静に考えればいつか必ず来ると分る)瞬間を皆想像出来ていなかった。 画像は星新一先生怒りの追悼文の全文(1989年2月10日の報知新聞掲載)
ぱふ1982年5月号「新谷かおる特集号」より 30歳当時?の佐伯かよの先生の御尊顔