綿引:昭和39年、TVまんが「鉄腕アトム」が放送開始されます 村上:「オリンピックが東京に来た」と「鉄腕アトム放送開始」は、自分の中でほぼ同じショックとして記憶されています。今見ると(鉄腕アトムは)そんなに動いていないけれど、当時はすごく動いているように見えました

綿引:そして、COMに投稿を始めた 村上:COMに最初に投稿した「海のことば」が佳作に入って、次の「サーカス」が入選、それで「もう一作描いてくれ」と依頼されて描いたのが「蟻の住む町」だったんですけれど、休刊とか色々あって結局載りませんでした



綿引:新宿の「コボタン」で、手塚先生と出会われたそうですね 村上:コボタンは「ここに来ればプロ作家の生原稿が見られる」という場所で、我々にとっての「聖地」でした。コボタンでの(手塚先生との)出会いは、今でも思い出します

綿引:(「フイチン再見!」で)上田先生の若い頃は、女性たちが「中原淳一派」と「松本かつぢ派」に別れていたと描かれていますね 村上:中原先生は戦前戦後とも抒情派で一貫していますけれど、松本かつぢ先生は、戦前は抒情派の挿絵画家だったのが戦後はスタイルを変えていたので自分も驚きでした

綿引:上田先生が戦後「少女ロマンス」に描くようになった。この古い雑誌の表紙資料はどうされたんですか 村上:編集さんが国会図書館とかで集めてデジタル化してくれました。現物は状態が良くないので修正が大変だったと思います 綿引:相当な御苦労だったのでは? 村上:ええ、かなりの資料数でした


漫画家が若くして亡くなる度に囁かれる「漫画家は早死に」は本当かと思って集計 自殺や事故で早逝したことが公表された方を除く219名の平均値は62.6歳 我が国の平均寿命より大分短い 勿論、公表されていないだけで自殺や事故の方がこの中にいる可能性も、長命の方が私の調査から漏れている可能性もあり

#矢口高雄展 第一期鑑賞 代表作が釣り漫画でキャラ容姿がマンガ的だったため、一般読者から軽視されていた感がありますが、実は凄まじい画力の天才 自然物や魚のリアリティは言うに及ばず、動きの一瞬を描く(勿論、頭の中で考えて)構図の見事さと卓抜な表現力 「マンガの絵」を勉強している人は必見

8月8日は 僅か2年間の商業誌活動で大きな痕跡を残し、マンガのこれからの可能性を示しつつ 1984年に26歳という若さでこの世を去った かがみあきら先生の御命日 そのあまりにも早すぎる死がなければ、その後の漫画界の地図も変わっていたかも

#昭和はすごかった 漫画雑誌に 漫画家の住所が普通に載っていました (1970年代中盤~終わり頃にほぼ消滅)

定期的にツイートされている、1989年2月10日報知新聞に載った星新一先生の追悼文ですが 全文はこちらになります。 https://t.co/wtamFJLvuw

りんたろう「憂国」 漫画パンチ1970年12月22日号 16ページ この時期、虫プロでTVアニメ「ムーミン」のチーフディレクターだった、後のアニメ監督りんたろう先生の珍しい漫画 同年11月の三島事件に触発されたであろう、テロや革命をネタにしたナンセンス仕立てのアメコミ調作品

@h_yuzuki はい、あすな先生は作品タイトルも作者名も全てご自身の手描きだそうですが(漫画家になる前にデザイン会社に勤めていたのでお手の物だったのかも) 編集部が雑誌掲載時に勝手にタイトルを変更した例があり(「流れ星ひとつ」⇒「踊り子人形」)

#子供の頃の勘違いをあえて言おう テレビで放送されていた海外ドラマや洋画を観ながら 「何でこの外国人さんたちは、こんなにも日本語が上手いのだろう」 と不思議に思っていました。

今日、2月9日は 32年前に日本中の漫画関係者&漫画好きが(けして誇張でも何でもなく)驚きの声を上げた日。 それほど「手塚治虫先生がいなくなる」と言う(冷静に考えればいつか必ず来ると分る)瞬間を皆想像出来ていなかった。 画像は星新一先生怒りの追悼文の全文(1989年2月10日の報知新聞掲載)

ぱふ1982年5月号「新谷かおる特集号」より 30歳当時?の佐伯かよの先生の御尊顔

東大前刺傷事件の高2は(報道によれば)医者になるため東大を目指すも成績不振で自暴自棄になったとか 手塚治虫「ブラックジャック/三者三様」で、高校受験に失敗した少年に加藤清正が掛けた言葉を思い出します 「どうしてそんなに一流校にこだわるんだよ」 「医者になるだけが人生じゃないんだぜ」

2017年11月5日、ブックカフェ二十世紀(神保町)で催された、「みなもと太郎画業50周年記念原画展」最終日のスペシャルトークイベント「みなもと太郎×飯田耕一郎」の聴講リポートをUPさせていただきます。