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東條チカ@yooochika
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2024年5月12日 7:01
#寝る前にアニメ鬼滅の刃初見感想  今日は18話…を視聴後のエンディング。 少し短めに。  どうも次の19話は、物語の山場ともいえる「神回」ということだそうです。 リプによるとその前にエンディングを視聴し、19話でもまたエンディングを視聴すると良いとのこと。 19話はおそらく特殊エンディング的な感じで映画的ラストのような演出なのでしょうね。 というわけで、通常エンディングを視聴しました。  それでよくわかりました。 なぜこのタイミングで、鬼滅ファンの方々が、それも決して少なくない数の方々がエンディングを見たほうがいいと言っていた理由が。  この18話では、ついに山にはびこる鬼達の全体像が見え始め、それが何らかの力による仮面家族だということがわかってきました。 それを踏まえたうえでエンディングを視聴すると、鬼の仮面家族たちがほんとうに可哀そうに、哀れに見えてきます。 同情すら覚えてしまう。  エンディングを見て、ここ数話の山での鬼たちを逆再生のように思い出すと、家族になる方法を知らなかった者たちのあがく姿が浮かびます。 おそらく十二鬼月である弟鬼の、何らかの拘束力によって…蜘蛛のフェロモンによる本能的なものなのか、なにか術による洗脳なのかはわからないが…家族を演じさせられているのでしょう。  でもエンディングで絵描かれる炭治郎たちは違う。 本当の家族のありようを、山の鬼が見たら手で顔を覆いたくなるかのようにまざまざと見せつけ、これが本当の家族だ!…と、お手本を見せているようでした。  悲劇に見舞われ家族は殺され、禰󠄀豆子は鬼になり、それでも兄である炭治郎との絆は揺れることなく困難に立ち向かっていく姿が、勇ましい歌詞と共に鬼に突き刺ささったでしょう。 最後は善逸と伊之助も加わり、お屋敷で「鬼」の禰󠄀豆子とともにまるで家族がごとく戯れます。  果たしてこれが、無惨によって鬼にされたものが家族を求めた結果である、これが両極である、というエンディングになっています。  やはりここでも作品のキャラに一貫したテーマがあり、よい隣人は存在したのかということを問いかけてきます。 炭治郎、禰󠄀豆子、善逸、伊之助、それぞれがそれぞれと出会っていなかったら、どうなっていたかわかりません。 弟鬼にもし炭治郎のような人がいたならと思ってしまいますが、もしかしたら最終選抜の時の鬼のように自らの手で殺めている可能性もありますね。 そう考えると、本当に禰󠄀豆子は運がよかったとしか言いようがありません。  エンディングではあと2つ、感想を書いておきたい場面がありました。  まず冒頭の彼岸花、続く横たわる禰󠄀豆子なのですが、カットは分かれてますがこれはセットであると思われます。 彼岸花はもちろん死を連想させますが、一連の演出的には花に囲まれて寝る禰󠄀豆子です。 ここから、昔を思い出して家族のシーンへ…と行くわけですが。  女性が花に囲まれ横たわっている、もしくは女性が半身を川や海などに沈んで寝ている… これは、宮崎駿をはじめとする一部の演出家が好んで使う、いわゆるオフィーリアです。 シェイクスピアのハムレットの一節を、ジョン・エヴァレット・ミレーが絵描いた絵画なのですが、大変美しい作品ですね。  作中でのオフィーリアは悲劇的な最期を迎えるのですが、この作品の意味するところは、それでも絵画の中の美しさは不滅。です。 絵画により、オフィーリアの美しさは復活したのです。  つまりこの演出のあるキャラは、不滅、もしくは復活するよ!…という、 美術史に詳しい人にだけ、物語のヒントをあげよう!という、アニメ演出家たちの茶目っ気たっぷりのサービスです。 最近では葬送のフリーレンのOPかEDだったかで、おりゃーくらえーって感じで多用されていたのが記憶に新しいですね。  ようするに、禰󠄀豆子はこの物語では生存!!たぶん。  もう一つは、幼少時と思われる炭治郎が舞いを行う人物を見つめるシーンです。 お祭りか何かでしょうか。 実はわたしの趣味は民俗学なのですが、たしか炭治郎の実家のあたりは奥多摩のあたりと聞きました。 わたしの住まいは八王子なので、近所です。 火を使う祭り?というと、高尾山の山伏たちの火渡りでしょうか。 高尾山といえば天狗なので、芳忠師匠にも関係がありそうです。 きっとなにか、今後絡んでくるのでしょう。  さて! 次回は19話なのですが頭でも書いた通り「神回」ということなので、とても感想が1回に収まるとは思えませんしカロリーも高そうです。 今週の原稿が終わってから、じっくり視聴し感想をしたためたいと思います。 どうか炭治郎にとっても鬼にとっても、納得のいく結末であることを祈るばかりです1#寝る前にアニメ鬼滅の刃初見感想 今日は18話…を視聴後のエンディング。 少し短めに。 どうも次の19話は、物語の山場ともいえる「神回」ということだそうです。 リプによるとその前にエンディングを視聴し、19話でもまたエンディングを視聴すると良いとのこと。 19話はおそらく特殊エンディング的な感じで映画的ラストのような演出なのでしょうね。 というわけで、通常エンディングを視聴しました。 それでよくわかりました。 なぜこのタイミングで、鬼滅ファンの方々が、それも決して少なくない数の方々がエンディングを見たほうがいいと言っていた理由が。 この18話では、ついに山にはびこる鬼達の全体像が見え始め、それが何らかの力による仮面家族だということがわかってきました。 それを踏まえたうえでエンディングを視聴すると、鬼の仮面家族たちがほんとうに可哀そうに、哀れに見えてきます。 同情すら覚えてしまう。 エンディングを見て、ここ数話の山での鬼たちを逆再生のように思い出すと、家族になる方法を知らなかった者たちのあがく姿が浮かびます。 おそらく十二鬼月である弟鬼の、何らかの拘束力によって…蜘蛛のフェロモンによる本能的なものなのか、なにか術による洗脳なのかはわからないが…家族を演じさせられているのでしょう。 でもエンディングで絵描かれる炭治郎たちは違う。 本当の家族のありようを、山の鬼が見たら手で顔を覆いたくなるかのようにまざまざと見せつけ、これが本当の家族だ!…と、お手本を見せているようでした。 悲劇に見舞われ家族は殺され、禰󠄀豆子は鬼になり、それでも兄である炭治郎との絆は揺れることなく困難に立ち向かっていく姿が、勇ましい歌詞と共に鬼に突き刺ささったでしょう。 最後は善逸と伊之助も加わり、お屋敷で「鬼」の禰󠄀豆子とともにまるで家族がごとく戯れます。 果たしてこれが、無惨によって鬼にされたものが家族を求めた結果である、これが両極である、というエンディングになっています。 やはりここでも作品のキャラに一貫したテーマがあり、よい隣人は存在したのかということを問いかけてきます。 炭治郎、禰󠄀豆子、善逸、伊之助、それぞれがそれぞれと出会っていなかったら、どうなっていたかわかりません。 弟鬼にもし炭治郎のような人がいたならと思ってしまいますが、もしかしたら最終選抜の時の鬼のように自らの手で殺めている可能性もありますね。 そう考えると、本当に禰󠄀豆子は運がよかったとしか言いようがありません。 エンディングではあと2つ、感想を書いておきたい場面がありました。 まず冒頭の彼岸花、続く横たわる禰󠄀豆子なのですが、カットは分かれてますがこれはセットであると思われます。 彼岸花はもちろん死を連想させますが、一連の演出的には花に囲まれて寝る禰󠄀豆子です。 ここから、昔を思い出して家族のシーンへ…と行くわけですが。 女性が花に囲まれ横たわっている、もしくは女性が半身を川や海などに沈んで寝ている… これは、宮崎駿をはじめとする一部の演出家が好んで使う、いわゆるオフィーリアです。 シェイクスピアのハムレットの一節を、ジョン・エヴァレット・ミレーが絵描いた絵画なのですが、大変美しい作品ですね。 作中でのオフィーリアは悲劇的な最期を迎えるのですが、この作品の意味するところは、それでも絵画の中の美しさは不滅。です。 絵画により、オフィーリアの美しさは復活したのです。 つまりこの演出のあるキャラは、不滅、もしくは復活するよ!…という、 美術史に詳しい人にだけ、物語のヒントをあげよう!という、アニメ演出家たちの茶目っ気たっぷりのサービスです。 最近では葬送のフリーレンのOPかEDだったかで、おりゃーくらえーって感じで多用されていたのが記憶に新しいですね。 ようするに、禰󠄀豆子はこの物語では生存!!たぶん。 もう一つは、幼少時と思われる炭治郎が舞いを行う人物を見つめるシーンです。 お祭りか何かでしょうか。 実はわたしの趣味は民俗学なのですが、たしか炭治郎の実家のあたりは奥多摩のあたりと聞きました。 わたしの住まいは八王子なので、近所です。 火を使う祭り?というと、高尾山の山伏たちの火渡りでしょうか。 高尾山といえば天狗なので、芳忠師匠にも関係がありそうです。 きっとなにか、今後絡んでくるのでしょう。 さて! 次回は19話なのですが頭でも書いた通り「神回」ということなので、とても感想が1回に収まるとは思えませんしカロリーも高そうです。 今週の原稿が終わってから、じっくり視聴し感想をしたためたいと思います。 どうか炭治郎にとっても鬼にとっても、納得のいく結末であることを祈るばかりです
めのの@K_menono
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2023年8月13日 22:52