繃帯嚢は明治32年に従来の黒革製から麻製に変更されました。よって日露戦争では32年式が使われているはずですが、戦地の写真を見るとまた違った繃帯嚢を持っています。改正の記録も無く詳細は不明ですが、絵では戦地型を採用しました。理由は32年式の肩紐の構造が理解できず描ききれなかったから…。
准陸軍尉官の写真。左肘に北辰形の徽章が見えます。この人は制式通りの着装ですが、古写真を見ていると、人によって徽章を大きくしたり小さくしたり、袖章に被らないよう位置を高めにしたり低めにしたりで、実際はそこまで制式に忠実でなくても良かったようです。右は開拓使が使用した旗の1つ。
日露戦争/旅順攻囲戦は近接して対陣する期間が長かったので、ときに両軍の間で不思議な友情が芽生えることがありました。例えば日本軍の攻撃後、露軍陣地で負傷した日本将校を見つけた露軍将校がそれを抱えてそのまま日本軍陣地へ送り届けることがあったそうで、当時の従軍画家が絵に残しています。
日露戦争の従軍画家が変が描いた変な絵。
電灯がまだ広く普及していない明治時代では軍隊に入営して初めて電灯を見る者もおり、山奥出身の新兵がフーフーと電灯を吹いて灯りを消そうとしたお話が残ってます。例えば陸軍第七師団の兵営の電灯設置は明治33年頃なので、日露戦争前後ならばフーフーする新兵が各地にチラホラいたのかもしれません。
従軍画家が描いた日露戦争中における陣中の新年祝賀会でお酌をしてまわる女装下士兵卒に熱い視線を送る黒木為楨将軍(第一軍司令官)。日露戦争の陣中は女っ気ゼロだったので、たとえ女装であったにしても周囲の目を惹きます。
明治陸軍兵営の入浴事情 兵営には下士兵卒が利用する浴場があり基本的に毎日入ることができました。下士兵卒にとって練兵での汗や汚れを落とす癒しの時間でしたが、時々入浴資格が無いはずの准士官である特務曹長などが入浴していることがあり、上官を追い出すわけにもいかず困ってしまったそうです。
日露戦争時の日本軍の喊声の一例 日本軍は敵陣への突撃時に「ワー」と喊声をあげるのが基本です。しかし「ワー」という喊声は突撃を重ねるうちに声が続かず次第に「ハー」となってしまったそうです。これはいけないということで工夫して「ヨイショ」の掛け声で突撃する部隊が現れました。
日露戦争では露軍の中に女性兵士がいたとのお話を見受けることがあります。多くの場合は徴兵された夫を追いかけて部隊に潜り込んだ女性たちで、髪を切り男装していたそうです。 当時の日本の従軍記者は、捕虜になった女性兵士が健康診断で日本軍側に女性だとバレてしまった様子を絵に残しています。
日露戦争時の帝国軍人は日本にいる間は周囲に相当モテました。ときには女学生が名刺を持って「交際をして下さい」と官舎を訪ねてくることもあり、その扱いに困ってしまったそうです。 (週番でもないのに週番懸章を身につけて巡察があるからと言ってごまかして逃げたりしたらしい)