兼業マンガ家•イラストレーター。小学生の女の子「ぽんすけ」と妻とぼく、の3人家族。#ぽんすけ成長日記 を描いてます。絵やマンガで、世界をすこし優しくできたらいいな。Amazonアソシエイト参加してます。第5回医療マンガ大賞『大賞』受賞

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ぽんすけと一緒に見た映画の内容がとてもよく、考えさせられる点も多い作品だったのでシェア!  『ワンダー 君は太陽』  という映画です。  トリーチャーコリンズ症候群という遺伝性疾患を持つ少年「オギー」の物語です。 障害当事者だけでなく周囲の人物からも多視点的に描かれていて、簡単にひとつの感想を持てない構成になっているのが秀逸でした。  あらすじや見どころはいろんなところに書いてあるので、この投稿ではぼくが考えたことをピンポイントに(以下長文です)。  ・・・・・・・・・  子ども(10)と一緒に見たのですが、物語冒頭で子どもが発言しました。  「え、全然変な顔じゃないじゃん!」  後から知ったのですが、主人公の顔は特殊メイクでつくったものであり、トリーチャーコリンズ症候群の特徴を再現しているものの、その表出の仕方は実際よりもたしかにマイルドに見えました。  子どもの「全然変な顔じゃない」の発言は、「顔や見た目で他人をわるく言うのは絶対にしてはいけないことだ」という強い正義感から発せられたもので、そういう感覚を持ってくれていることを誇りに思います。  しかし、違和感もあります。 もし自分の顔にオギーと同じ特徴があったら、苦しまないで生きられるだろうか。 ぼく自身は明確にノーです。 おそらく子どももそうです。  「変な顔じゃない」の言葉には、正義感の一方で他人ごと感がある。  映画の鑑賞を続けながら、ぼくはその違和感を子に伝える努力をしようとしました。でも上手く言葉にならない。 一言か二言もごもご言って、会話が成立せぬまま続きを見ることになってしまいました。  オギーの顔を「変な顔・醜い」と断じることはもちろんしてはいけないこと。 だけど、「全然変じゃない」と庇うことも、別のベクトルで、当事者への共感から遠ざかっている気がするのです。  だって、現実に当事者は、オギーは苦しんでいるのです。 「変じゃない」という感想は、たとえそれが率直な感想であったとしても、「苦しむようなことではない・苦しんではいけない」という責めを相手に与えてしまう。  じゃあ子の一言に、ぼくはどう言えばよかったのか。 「そうだよね変なんかじゃないよね」でもなく、「いやいや、オギーの顔は醜いよ」でもなく、どんな言葉や感想を持てば、オギーの心の支えとなれるのか。自分とオギーに信頼関係を紡いでいけるのか。  ひとつの仮説は、「正負どちらの方向であるにせよ美醜の主観的判断を軽々しく伝えないこと」「そのかわり、相手の感じている感覚を理解しようとすること」です。 でもこれでは共感を示すことにはなっても、解決や発展にはつながらない。 それでも、「まだマシ」な半歩だと思います。  もうひとつの仮説は、同じ言葉だとしても信頼関係の有無で意味が全く異なるということ。  「オギーの顔は全然変じゃない」  それをオギーの顔だけを初めて見た人(ぼくたち視聴者)が言うのと、オギーと人間同士の信頼関係をいくつかの出来事を通じて紡いで来た人が言うのでは意味が違う。 どう違うかと言えば、前者は器の表面だけを評価していて、後者は中身に対する感想を伝えている。 つまり、信頼関係が先で感想を口に出すのは後にせよ、という仮説です。  これを端的に10歳の子どもに、その正義感を否定せずに伝える言葉を、ぼくはまだ持てていません。 どう答えればよかったのか。 思考の引き出しに入れておこうと思い、文章に残しました。  長文を読んでくれてありがとうございます。 とても素晴らしい映画だったので、皆さんもぜひ見てみてください。1
ぽんすけと一緒に見た映画の内容がとてもよく、考えさせられる点も多い作品だったのでシェア! 『ワンダー 君は太陽』 という映画です。 トリーチャーコリンズ症候群という遺伝性疾患を持つ少年「オギー」の物語です。 障害当事者だけでなく周囲の人物からも多視点的に描かれていて、簡単にひとつの感想を持てない構成になっているのが秀逸でした。 あらすじや見どころはいろんなところに書いてあるので、この投稿ではぼくが考えたことをピンポイントに(以下長文です)。 ・・・・・・・・・ 子ども(10)と一緒に見たのですが、物語冒頭で子どもが発言しました。 「え、全然変な顔じゃないじゃん!」 後から知ったのですが、主人公の顔は特殊メイクでつくったものであり、トリーチャーコリンズ症候群の特徴を再現しているものの、その表出の仕方は実際よりもたしかにマイルドに見えました。 子どもの「全然変な顔じゃない」の発言は、「顔や見た目で他人をわるく言うのは絶対にしてはいけないことだ」という強い正義感から発せられたもので、そういう感覚を持ってくれていることを誇りに思います。 しかし、違和感もあります。 もし自分の顔にオギーと同じ特徴があったら、苦しまないで生きられるだろうか。 ぼく自身は明確にノーです。 おそらく子どももそうです。 「変な顔じゃない」の言葉には、正義感の一方で他人ごと感がある。 映画の鑑賞を続けながら、ぼくはその違和感を子に伝える努力をしようとしました。でも上手く言葉にならない。 一言か二言もごもご言って、会話が成立せぬまま続きを見ることになってしまいました。 オギーの顔を「変な顔・醜い」と断じることはもちろんしてはいけないこと。 だけど、「全然変じゃない」と庇うことも、別のベクトルで、当事者への共感から遠ざかっている気がするのです。 だって、現実に当事者は、オギーは苦しんでいるのです。 「変じゃない」という感想は、たとえそれが率直な感想であったとしても、「苦しむようなことではない・苦しんではいけない」という責めを相手に与えてしまう。 じゃあ子の一言に、ぼくはどう言えばよかったのか。 「そうだよね変なんかじゃないよね」でもなく、「いやいや、オギーの顔は醜いよ」でもなく、どんな言葉や感想を持てば、オギーの心の支えとなれるのか。自分とオギーに信頼関係を紡いでいけるのか。 ひとつの仮説は、「正負どちらの方向であるにせよ美醜の主観的判断を軽々しく伝えないこと」「そのかわり、相手の感じている感覚を理解しようとすること」です。 でもこれでは共感を示すことにはなっても、解決や発展にはつながらない。 それでも、「まだマシ」な半歩だと思います。 もうひとつの仮説は、同じ言葉だとしても信頼関係の有無で意味が全く異なるということ。 「オギーの顔は全然変じゃない」 それをオギーの顔だけを初めて見た人(ぼくたち視聴者)が言うのと、オギーと人間同士の信頼関係をいくつかの出来事を通じて紡いで来た人が言うのでは意味が違う。 どう違うかと言えば、前者は器の表面だけを評価していて、後者は中身に対する感想を伝えている。 つまり、信頼関係が先で感想を口に出すのは後にせよ、という仮説です。 これを端的に10歳の子どもに、その正義感を否定せずに伝える言葉を、ぼくはまだ持てていません。 どう答えればよかったのか。 思考の引き出しに入れておこうと思い、文章に残しました。 長文を読んでくれてありがとうございます。 とても素晴らしい映画だったので、皆さんもぜひ見てみてください。