人の営みとノスタルジア。民俗、宗教、寺社、団地、切り絵 etc. 平成13年製。
栄国寺(名古屋市)の本尊である阿弥陀如来像 この地において処刑されたキリシタンの供養のため、尾張藩2代藩主 徳川光友が運んできたものであるというが、名古屋空襲の戦火も免れたために「火伏不思議の弥陀」として信仰を集めている また、同寺ではキリシタン遺物の展示もなされている
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(1/6) 儒教の生命観によれば、各々の身体は単なる個人の所有物ではなく、父母の遺体(=父母によって継承された身体)であるとみなされる この観念は『孝経』において 「身体髪膚、之を父母に受く 敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」 と記されている通り、 ↓続
アンベール城からの眺望
アーグラ城
ナーランダー大僧院跡 古代インドの代表的な仏教大学 ここへ留学した義浄によれば、約3千人もの学生がいたという これは一度に建設されたのではなく、仏教に帰依していたグプタ朝の代々の君主が僧院を増設していき、それが大僧院と呼ばれるに至ったもの
(1/6) 豆撒きの行事に影響を与えたと考えられるのが、疫神を駆逐する行事としての「追儺(ついな)」であり、現在は各地の神社等で行われている 追儺は中国に由来する儀礼で、周代には方相氏(ほうそうし)という呪師が熊皮を被り、四ツ目の面をつけ、矛と盾を持ち、百官を率いて疫鬼を追ったという ↓続
(1/6) 正月飾りなどを燃やす行事を「ドンド焼き」という この行事を「松送り」という地域もある他、 正月に訪れた神はドンド焼きの煙に乗って帰っていくという伝承もある 松は神の依りつく依代とされ、古くは松飾りを作るため、正月前に山へ松や竹を切りに行く「松迎え」が行われていたが、 ↓続
(1/2) 伊勢神宮を"日本国の総鎮守"とする観念が浸透し始めたのは中世の頃で、 たとえば平安末期に源義宗は 「是大日本国者惣為皇太神宮 豊受宮御領之故也 (大日本国は全て伊勢両宮の御領地である)」 と記しているほか、 『神皇正統記』においては 「(神宮は)天下第一ノ宗廟」、 ↓続
一つ前の、神楽に関するツイートで詳述しましたが、奥三河地方における花祭りの根本思想である「生まれ清まり」は、"祓いと再生=生まれ変わり"の関係を端的に示した言葉であるように思われますね
(1/2) 桓武天皇は、天武系から天智系への皇統の革新を強調することで政権基盤の安定を図ろうとしたらしく、 自身が属する王朝の初代皇帝を祀る昊天祭祀において、桓武天皇は父である光仁天皇を"初代天皇"として祀り、(もちろん氏族までは変化しないが)父の代で王朝交替が起きたことをアピールした ↓続
(1/4) 時宗は浄土系諸宗の中でも神仏習合の色彩が強い宗派であり、それが今日まで継承されているのだが、 そもそも宗祖である一遍が、熊野本宮大社での参籠の際に受けた熊野権現による神託で成道したことを思えば、何ら不思議は無い (主祭神・ケツミミコ神の本地は阿弥陀如来) その神託の内容は、 ↓
SNS上の議論を見るに、性風俗産業は賤職と見なされることが一般的であるようだが、歴史的にはバビロニアの神聖娼婦やインドのデーバダーシ、日本の巫娼などのように、聖職と見なされていた時期もある 要するに社会的評価や視線というものは固定的でなく、時代的文化的な要因によって変容するということ
(1/3) 日本の古い信仰では、盆とは元来、死者と生者の両方の御魂を供養する行事であった 盆に際して、健在である両親に食物などを送って祝うことを「生見玉(いきみたま)」という 盆は一般に、先祖霊や無縁仏を供養する行事であると解されているが、生見玉は生きている親に対する一種の供養である ↓続
茅の輪は左右左の順に∞の字に潜りますが、民間にあっては、その際に口にする唱え言葉が伝承されてきました いくつかのパターンがありますが、左の画像に示したものがその一例に当たります 覚えられない場合はメモをして、くぐる際にそれを見ながら行っても差し支えないでしょう
(1/5) 稲荷神と交神してその託宣(お告げ)を伝えることを生業とする民間の宗教者に「イナリサゲ」と呼ばれる人々がおり、殊に大阪府に多かった 一例をあげると、枚方市津田に戦前まであったイナリサゲは老女であったが、この家の庭には稲荷の祠が祀られ、その下には狐の穴というものがあった ↓続
そもそも衣というものは、御魂の依り憑く依代でもあったかつて難波津で、即位儀礼の一環として斎行されていた八十島祭において、天皇の衣を納めた箱を揺り動かす"魂振り"の儀式が行われたのも、まさにそのためであろう黄櫨染御袍は、天照大御神の御魂が宿る神聖な依代そのものだったのだ
万博を目的として来阪する方も大勢いらっしゃるとは思われますが、是非とも、国立民族学博物館(通称"みんぱく")にも足を運んでいただきたいですね致死量の民俗文化が浴びられます
本日は自転車に乗ってアンコール遺跡を拝観しました石壁に刻まれた精緻な彫像の一つ一つに、在りし日のアンコール朝の栄華と、その背後に影を落とす壮絶な王位争奪戦を偲びつつ、燦々と照りつける熱帯の太陽の下、額に滲む汗を拭いながら歩き、また走りました
(6/6)これは新しい年を迎えるに際して行われる儀礼的要素が、暦法が普及するに伴い、年神を迎えることに重点をおく正月行事と、厄祓いや魔除けといった色彩の濃厚な節分行事とに分化していった結果であると考えられている
(2/6)日本でもこれが取り入れられ、平安時代の宮中では毎年の大晦日に大舎人(雑事に従事した下級の役人)が方相氏となって、中国の古式に近い形で追儺が行われたその後、宮中の儀礼は廃れたが、鬼追いの式は寺院の修正会・修二会や、神社の節分祭として行なわれるようになった↓続
(1/6)豆撒きの行事に影響を与えたと考えられるのが、疫神を駆逐する行事としての「追儺(ついな)」であり、現在は各地の神社等で行われている追儺は中国に由来する儀礼で、周代には方相氏(ほうそうし)という呪師が熊皮を被り、四ツ目の面をつけ、矛と盾を持ち、百官を率いて疫鬼を追ったという↓続
(1/6)正月飾りなどを燃やす行事を「ドンド焼き」というこの行事を「松送り」という地域もある他、正月に訪れた神はドンド焼きの煙に乗って帰っていくという伝承もある松は神の依りつく依代とされ、古くは松飾りを作るため、正月前に山へ松や竹を切りに行く「松迎え」が行われていたが、↓続
(1/4)どこかから飛来して、その地に鎮まった神霊を「飛び神」という元来、神霊は自由自在に空中を飛び回り、人々の求めに応じて来臨するものと考えられてきた従って、神霊の来臨に距離などは問題なく、拍手ひとつに応じて千里の彼方にある神が、一瞬にして目前の御幣に乗り移ることもある↓続
(1/3) 日本人の古い信仰では、盆とは元来、死者と生者の両方の御魂を供養する行事であった 盆に際して健在である両親に食物などを送って祝うことを「生見玉(いきみたま)」という 盆は一般に、先祖霊や無縁仏を供養する行事であると解されているが、生見玉は生きている親に対する一種の供養である ↓続