Vatanabeus@nabe1975

    江戸末期の「守貞謾稿」に、稲荷寿司に関する記述が見える。 「天保末年、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり」

    江戸末期の「守貞謾稿」に、稲荷寿司に関する記述が見える。 「天保末年、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり」
    239ヶ月前
    Vatanabeus@nabe1975

    稲荷寿司の異名である「篠田鮨」とは「信太鮨」であり、泉州にある信太山の森に棲んでいたという狐(葛の葉)に因む。

    稲荷寿司の異名である「篠田鮨」とは「信太鮨」であり、泉州にある信太山の森に棲んでいたという狐(葛の葉)に因む。
    009ヶ月前
    Vatanabeus@nabe1975

    清少納言の父、清原元輔は最終官位が従五位上行肥後守と決して高位の貴族ではなかったものの、村上天皇の命により「後撰和歌集」を編纂した「梨壺の五人」の一人として若い頃から名声が高く、歌人として特殊な地位を得ていた。三十六歌仙の一人。

    清少納言の父、清原元輔は最終官位が従五位上行肥後守と決して高位の貴族ではなかったものの、村上天皇の命により「後撰和歌集」を編纂した「梨壺の五人」の一人として若い頃から名声が高く、歌人として特殊な地位を得ていた。三十六歌仙の一人。
    561279ヶ月前
    Vatanabeus@nabe1975

    元輔は賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、冠が滑り落ちて禿頭が露わになった。夕日を浴び禿頭が輝く様を周囲の者が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠を被ろうともせずに、落馬して冠を落とした人々の例を挙げては弁解して歩き、一同はさらに面白がった。剽軽な人柄で、人を笑わせることを役目としていた。

    元輔は賀茂祭の奉幣使を務めた際に落馬し、冠が滑り落ちて禿頭が露わになった。夕日を浴び禿頭が輝く様を周囲の者が笑うと、元輔は脱げ落ちた冠を被ろうともせずに、落馬して冠を落とした人々の例を挙げては弁解して歩き、一同はさらに面白がった。剽軽な人柄で、人を笑わせることを役目としていた。
    27589ヶ月前
    Vatanabeus@nabe1975

    ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは (小倉百人一首、42番) 清原元輔の歌人としての名は非常に高く、後に娘の清少納言が女房勤めした際に「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」と言って許されたという。

    ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは (小倉百人一首、42番) 清原元輔の歌人としての名は非常に高く、後に娘の清少納言が女房勤めした際に「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」と言って許されたという。
    20279ヶ月前

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