セザンヌのこれらの鉛筆によるデッサンにおいても消しゴムの跡は見受けられない。そのかわり対象のフォルムを探る線が幾重にも重ねられ、それが逆に揺らぎに満ちた不思議な実在感を呼び起こす。不同舎/小山正太郎の「タンダ一本の線」とは対極的なあり方。


これら日々のドローイング、アカデミックなメソッドに則って描くデッサンはコロナ禍と共に本格化した殆どプロジェクトと言ってもいいものかも知れず、実に退行療法的な意味を持っている。十代後半以降、激しく抑圧しなければならなかったものの解放。



フランス19世紀におけるデッサンの虎の巻たるバルグ・メソッド、デッサン講座に取り入れ始めたのが8年ほど前なのだけど、ここへ来て正面切って、教室の基本カリキュラムに据えることにした。初学者の導入門として本当によく出来たメソッドだとつくづく感心する。

エドワード・ホッパーの制作ノート。律儀。この時点で本画のクオリティが保証されているかのよう。

ロバート・スミッソンのドローイングを探る。

欧米のネオクラシカルというかアカデミック ドローイングのメソッドのBlock inという概念、日本式のデッサンだとまさにその概念が抜け落ちていると思える。

ロシア式デッサン、興味深い(他意はない)。

「静物画」を体系的に論じた本というと、これしか知らない。

アングルのデッサンって、トーン?なにそれ?といわんばかりの感じあるよな。どこまでも線主体のデッサン。ドガに「たくさん線を引きなさい」とアドヴァイスしたのも肯ける。

ロシアのアカデミックドローイングを見ていると"凡庸"の質量ということを考えてしまう。凡庸のレベルの高さとその蓄積の分厚さ。

(前掲のデッサンからスタートして)私が予備校でいかにして石膏デッサンが下手に(苦手に)なっていったか。

これは実際、モダニズムですよね。この合理化、メソッドとして習得すれば、誰でも描けますよというのはモダニズム以外のなにものでもない。

「体」の旧字は「體」であって、昔の「日本人はとにかく骨を重視したという話をよく聞くが、現代日本の受験デッサンでは人体における骨(骨格)の意識がとにかく弱いように思える。 (画像はロシアのアカデミックドローイング)

サージェントの描くプロフィール、線へのこだわり。